〈紅白落選、全米デビューに「幼い娘を置いて」と批判も…「つらい。帰りたい」当時26歳の松田聖子を襲った“試練の数々”〉 から続く 【貴重写真】松田聖子はショッキングピンクのミニスカワンピースで満面の笑み…沙也加さんとの“親子ツーショット” 4月1日にデビュー45周年を迎えた、歌手の松田聖子(63)。自身と同じ芸能の道に進んだ一人娘・神田沙也加に抱いていた思いとは。今も歌い続ける彼女の歩みを振り返る。(全3回の3回目/ はじめ から読む) ◆◆◆ 松田聖子は1992年より自分で作詞を始めたのを機に、セルフプロデュースするようになった。自作の歌に合わせてステージ、衣装、髪型と、あらゆるイメージが泉のように湧いてきて、それを形にしていくことが楽しくて仕方がなかったという。もともとデビュー当初からフリフリの衣装を提案したりと、自身をプロデュースする才能には長けていた。 だが、この路線もしだいに行き詰まる。ちょうど私生活でも1997年に神田正輝と離婚、翌年に再婚するも長続きしなかったりと、不安定な時期だった。自分一人だけの力に限界を感じてか、1999年には、かつてCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)で彼女を発掘して育ててくれたプロデューサーである若松宗雄にマネジメントをやってほしいと懇願し、個人事務所に迎え入れている。同年にはまた、80年代に「赤いスイートピー」など数々のヒット曲を生んだ作詞家の松本隆とのコンビを久々に復活させ、シングル「哀しみのボート」をリリースした。 デビュー以来全速力で時代を駆け抜けてきた聖子だが、40代に入ると、ちょっと立ち止まって、まわりの景色を楽しんだり、色々な人と話したりしたいと思うようになっていた。当時、その理由を《もしかしたら、年齢は関係ないかもしれないけど……。娘が同じ仕事をするようになったからかな……。(笑)》と語っている(『婦人公論』2002年6月22日号)。
一人娘の芸能界入りに反対した理由
一人娘の沙也加は、聖子とロサンゼルスに住んでいた1999年、USC(南カリフォルニア大学)の卒業生が制作する短編映画『BEAN CAKE(おはぎ)』のオーディションに合格し、ヒロインを演じた。同作が2001年にカンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞したことから沙也加は一躍脚光を浴び、同年にはSAYAKA名義で芸能界にデビューする。 とはいえ、母親の聖子は、映画のオーディションのときこそ沙也加を応援したものの、彼女の芸能界入りには反対だったという。それというのも、自身が芸能界に入って、楽しいこともあったとはいえ、その反面つらいこともたくさんあり、同じ苦労をさせたくなかったからだ。
しかし、沙也加は幼いころより、舞台袖で母親をずっと見てきて、芸能界というより表現することに強い関心を抱いていた。後年、母とそろって雑誌の取材に応えたときには、《大舞台で歌っている母を袖で見ていると、観客の方と母の心がつながっている様子がよくわかるんです。それはもう素敵とかのレベルではなくて、何かすごいことが舞台で起きているのを感じました》と語っている(『25ans』2007年11月号)。 聖子は悩んだ末、若松に相談すると、《今、目標が持てない若者が多い中で、これだけやりたいことがはっきりしているんだから、やらせたほうがいい。可能性を閉ざすのは、フェアじゃない》と説得されたという(『COSMOPOLITAN』2002年2月号)。恩人の忠言により聖子はとうとう折れ、当時中学生だった沙也加には学校にはちゃんと行くと約束させた上、若松に彼女を預けたのだった。
娘は母の手を離れ「神田沙也加」として別の道を選んだ
沙也加のデビュー後初仕事は江崎グリコ「アイスの実」のCM出演で、その挿入歌も彼女自ら作詞して歌い、大きな反響を呼ぶ。翌2002年には「ever since」でCDデビューも果たしている。しかし、その後、松田は若松と、沙也加の歌手活動の方向性をめぐって対立し、お互いに何とかすり合わせようとしたものの、最終的に母娘で彼のもとを去るにいたった。 この時点でまだ未成年だった沙也加に、聖子はステージママぶりを発揮したものの、反面では《彼女の中には、「母とは違う」という意識があると思うんです。母はああやって、あんなふうに仕事をしてきたけれど、「私は私、私はこうなるんだ」という自分らしさのイメージがはっきりあるはず。それは、見ていてよくわかります》と見抜いていた(『LEE』2003年8月号)。 それだけに、その後、沙也加が母親の手を離れるのは自然の流れであったのだろう。やがて沙也加は、2004年に宮本亞門演出のミュージカル『INTO THE WOODS』で初舞台を踏んだのを機に、ミュージカル俳優に針路を定めた。2006年からは本名の「神田沙也加」で活動するようになる。 それでも仕事を離れたところでは親子の仲は良く、同居していた聖子の母(沙也加にとっては祖母)から、夜遅くまでしゃべったりしていると一緒によく怒られたという。このころ聖子は、自分と沙也加の違いを次のように説明しながら、娘を褒め称えていた。 〈《彼女と私では、仕事にとりくむときの方法論がまるで違います。お芝居でも、私は台本を読んで把握したら、あとは感覚にまかせるタイプで、いわゆる直感型でしょうか。娘は完全に分析型で、台本には彼女が演じる役の緻密な人物分析がびっしり書き込んであったり、気持ちの動きを折れ線グラフで示してあったり、本当にすごいんです》(『婦人公論』2008年4月7日号)。〉
突如として訪れた、沙也加との別れ
2011年には母娘で紅白歌合戦で共演もして、関係は良好とうかがわせた。しかし、その後、確執が頻繁に伝えられるようになる。そんな喧噪をよそに、沙也加は着実に俳優として実力を発揮していった。それが2021年12月、突如として彼女は逝ってしまう。 往年のスターには、家族の問題や病気などで寂しい後半生を送るケースが目立つ。たとえば、「戦後歌謡界の女王」と呼ばれる美空ひばりは、弟の不祥事から一家でマスコミの非難を浴び、公演やテレビから締め出された時期を経て、ステージママだった母親を亡くすと、晩年は闘病を続けながらもステージに立ち続けたことが一つの物語として語られている。 だが、筆者は、松田聖子だけはそうした悲劇とは無縁だと思っていた。沙也加との確執も、時が解決するものと信じていた。しかし、和解の機会はとうとう訪れなかった。沙也加のことを生まれたときから知っていたにすぎない筆者を含む多くの第三者でさえ、その死には相当のショックを受けたのだから、母親である聖子の心情はいかばかりであったか、想像するにあまりある。引退を考えてもおかしくはなかったはずだ。
それでも歌手をやめることはなかった
だが、それでも聖子が歌手をやめることはなかった。沙也加を亡くした4ヵ月後の2022年4月には、都内のホテルでのプレミアムディナーショーでステージに復帰する。このとき、娘の思い出などを時に涙声で語りながら、かつて紅白で親子で歌った坂本九の「上を向いて歩こう」のカバーなどを歌い上げたという。同年6月からは全国ツアーにのぞみ、初日には沙也加をしのんでその歌手デビュー曲「ever since」を歌った。 シングルは2016年より、オリジナルアルバムも2021年以降リリースがないものの、昨年にはジャズアレンジによる「赤いスイートピー」のセルフカバーを含むカバーアルバム『SEIKO JAZZ 3』を発表している。
自分の本領は「きらきら輝くポップス」
聖子は歌手としてデビュー以来一貫して、ファンに楽しんでもらうことに徹してきた。自分の本領は「きらきら輝くポップス」と肝に銘じ、アメリカで新たな挑戦を続けながらも、日本のファンに向けては親しみやすい曲づくりを心がけた。 コンサートツアーでの恒例のヒットメドレーでも、かつて「青い珊瑚礁」のアレンジを変えませんかと言われたことがあったが、《あのままをみんなと一緒に歌うことがいいんじゃないかと思う》として変えなかったという(『COSMOPOLITAN』1998年6月号)。 2001年の全国ツアーでは、10年ぶりに訪れた土地でブランクを感じさせない盛り上がりとなり、彼女も感動して《ファンのみなさんと一緒に『赤いスイートピー』では涙の大合唱になりました》と振り返った(『婦人公論』2002年6月22日号)。沙也加が幼い頃に見て、表現することに憧れるきっかけとなったのも、そうした光景だったのだろう。とすれば、亡き娘のためにも、聖子は歌い続けねばならないといえる。 デビュー45年のアニバーサリーイヤーである今年も6月から全国ツアーを控える。長いキャリアのなかで何度となく初心に返っては、新たな挑戦を重ねてきた聖子が、この節目にどんなステージを見せてくれるのだろうか。