宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』は第96回アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞した。本作で宮崎が伝えたかったことを、過去のジブリ作品からの引用に注目するなど、多角的な視点で紐解くレビューをお届けする。(文・司馬宙)※※本レビューは2023年7月の公開時にアップした記事です。 【写真】なぜジブリ史上最大の問題作となったのか? 貴重な未公開カットはこちら。映画『君たちはどう生きるか』劇中カット一覧
国民的作家によるカルト系アート映画
宮崎駿【Getty Images】
長嶋茂雄に王貞治、美空ひばり、黒澤明…。かつてこの国には「国民的スター」と呼ばれる人がおり、国民に希望と勇気を与えてきた。しかし、近年は価値観の多様化もあり、こういった国民的なスターが生まれにくくなっている。 そんな中、宮崎駿は「国民的スター」といえる数少ない人物だろう。スタジオジブリを牽引し、アニメーションを通して日本人の精神性を形成してきた宮崎。私たちにとって「バルス」が共通の合言葉であり、トトロの森が心の原風景であり続けてきたことは論をまたない。 さて、そんな「国民的スター」宮崎の(2本目の)最後の作品となれば、映画館に足を運ばないわけにはいかない。というよりも、この令和の時代に宮崎の新作を映画館で見れること自体、何よりの幸せだ。ましてや、事前の発表はタイトルとポスタービジュアルのみとなれば、私たちの期待もいやがうえにも高まってしまう。 本作は決してわかりやすい映画ではない。現に、筆者が見に行った映画館は満席だったが、開始30分で早くも子どもがぐずりはじめた。また、大手映画サイトのレビューの点数も、宮崎作品ではかなり低い点数を記録しており、「わからん」「問題作」といった意見も散見される。
事前プロモーションが一切行われなかったワケ
© 2023 Studio Ghibli
なぜ本作は、これまでのジブリ作品にも増して、「面白くない」といったネガティブな意見が飛び交っているのか。それは、本作が他の宮崎作品とは異なり「二重底」ではないからだろう。 従来の宮崎作品は、宮崎自身の内情や壮大なコンセプトといったメッセージが底にありながらも、表面上は子供でも楽しめる冒険活劇の体裁がとられていた。しかしこの「二重底」の構造は、『崖の上のポニョ』(2004年)で徐々に崩れ、本作では完全に瓦解している。 早い話が、本作は血湧き肉躍るエンターテイメント映画ではなく、難解で分かりづらいアート映画なのだ。そう考えると、なぜ事前宣伝がなされなかったかについても合点がいく。本作がアート映画であることを全面に出すと客入りに響く。一方、予告編でさもエンタメ映画であるように宣伝すると観客を裏切ることになってしまう。つまり、事前に箝口令を敷く以外選択肢がなかったのだ。 とはいえ、本作ははじめから難解なわけでは決してない。本作の主人公・眞人は、太平洋戦争中に火事で実母を失い、軍需工場の経営者である父親の正一の再婚をきっかけに久子の妹・ナツコのもとへと疎開する。眞人は、疎開先の屋敷で不審なアオサギを見かける。彼がアオサギの姿を追うと、そこには謎の塔が立っている。その晩、眞人は、ナツコから塔が大叔父様によって建てられたこと、塔の地下に巨大な迷路があることが伝えられる。 本作が難解になるのは、眞人が消えたナツコを追って塔の中へと足を踏み入れて以降だ。セキセイインコの兵隊やペリカンなど、さまざまなキャラクターが登場し、物語はフィクションと現実が激しく交錯しながら展開する。
宮崎駿作品を学習したAIが見る夢 過去作へのオマージュシーンを解説
本作を見て筆者が真っ先に連想したのはカルト映画の鬼才デヴィッド・リンチの超難解映画『マルホランド・ドライブ』(2001年)だった。この作品は、ハリウッド近郊の「マルホランド通り」を舞台に、事故を負った謎の女性リタと新人女優ベティの交流を描いた作品で、現実世界と夢の世界が入り混じったり、断片的なイメージが散りばめられていたりと、本作と共通した要素を持っている。 また、両作品が「メタフィクション」(フィクションについてのフィクション)である点にも注目したい。『マルホランド・ドライブ』では、1人の役者が現実の世界と夢の世界で全く異なる役を演じているが、こういった展開は『君たちはどう生きるか』でも見られる。 ただ、『君たちはどう生きるか』には、『マルホランド・ドライブ』と決定的に異なる点がある。それは、作者である宮崎自身の自伝的な風合いが色濃く出ている点だ。例えば眞人の父親・正一が軍需工場の社長であるという設定は、そのまま宮崎の父の職業に当てはまる。また、眞人の「母の不在」は、宮崎が幼い頃、母が脊椎カリエスで寝たきりでなかなか遊んでもらえなかったという幼少期の記憶が反映されている。 極め付けは、過去の宮崎作品へのオマージュだろう。眞人と老婆・キリコが異世界へトリップする入口となる洞穴は、『となりのトトロ』(1988年)に登場する、メイたちがトトロに会いに行くために通過する樹木のトンネルを想起させる。 また、眞人がアオサギを撃つためにこしらえる弓矢は、言うまでもなく『もののけ姫』(1997年)のアシタカの武器であり、ナツコが眠る部屋に張り巡らされた紙の“式神”(しきがみ)は、『千と千尋の神隠し』(2001年)で、鳥の形をした紙が乱舞するシーンを否が応でも思い出させる。 本作は過去の宮崎作品を学習したAIが見る夢であるかのように、宮崎作品に登場するモチーフが散りばめられている。つまり本作は、「メタフィクション」(アニメーションについてのアニメーション)であると同時に、作家である宮崎自身の自画像でもあるのだ。
過去作のキャッチコピーとの違いから読み解く本作のメッセージ
また、序盤から崩壊と死の匂いが全編に満ち溢れているのも本作の特徴だろう。例えば序盤の火事のシーンは、なんとも陰鬱な雰囲気で幕を開ける。とぐろを巻くどす黒い炎は、まるで一つの生き物であるかのように美しく、再生と崩壊が同時に起こっているような印象が感じられる。そして終盤には、とある老人が登場する。長年塔の中に住み、後継者を探していると語るその人物は、まさに老境の宮崎そのものだ(この人物を演じる火野正平は、庵野秀明が演じた『風立ちぬ』の堀越二郎よろしく、不器用な声を披露している)。 本作にはなぜこれほど死のモチーフが現れているのか。この問題を解く鍵となるのが、本作のタイトルだ。1937年に発表された吉野源三郎の小説から取られたこのタイトルは、本作の内容とは正直あまり関係がない。現に、この小説はナツコの家のシーンで申し訳程度に登場するだけで、なくてもストーリー上全く問題がない。 ではなぜ、宮崎はわざわざこのタイトルを採用したのか。それは、このタイトルが御年82歳となる宮崎の「生きる」への思いを端的に表現したキャッチコピーだからに他ならない。 宮崎はこれまで、アニメーション(ラテン語で「霊魂」を意味するAnimaが語源)を通して、人間や動物の「生きる」を描出してきた。それが端的に現れているのは、宮崎作品のキャッチコピーだ。例えば『もののけ姫』では、主人公アシタカのセリフから「生きろ。」が、そして『風立ちぬ』では「生きねば。」がキャッチコピーに採用されている。 この二つのキャッチコピーは、どちらも「生きなければならない」という強い主体性と意志を感じさせるものになっている。しかし、本作のタイトルでもある「君たちはどう生きるか」では、こういった主体性や生への執着は微塵も感じられない。 そう、宮崎はもう生き抜いたのだ。必死でもがき、苦しみながらも、自身の生を全うしたのだ。だからこそ、若い私たちに「これからどう生きるのか」と期待を託しているのだ。
「アニメ=生命を吹き込む」ということ
© 2023 Studio Ghibli
本作には、鳥や魚、蛙、そしてワラワラなど、群れのイメージが頻出する。しかし、これらの描写には、『風の谷のナウシカ』の王蟲や『もののけ姫』のタタリ神といった「生命のエネルギー」があまり感じられず、ただ自然の摂理に沿ってこんこんと湧出するような印象が感じられる。 これらのイメージは、もはや生への執着を失いつつある宮崎の自動筆記(意識とは無関係に行われる記述)であり、宮崎が最期の瞬間に見る「走馬灯」と考えて良いだろう。もはや宮崎は、自身の力で絵を描いてすらいないのだ。 ー私はこう生きた。生き抜いた。さて、君たちはどう生きるのか。 宮崎は最後の作品で、この問いを私たちにぶつけてきた。今度は私たちの番だ。今こそ宮崎からこの問いを引き継ぎ、各々の塔を築かなければならない(とはいえ筆者は、宮崎の「3作目の最後の作品」を切に願っている)。